東京地方裁判所 昭和29年(ワ)11286号 判決 1956年7月20日
原告 光和食糧株式会社
被告 伊藤清
主文
被告は原告に対し、金二十二万五千円と、これに対する昭和二十九年一月六日から完済に至るまで年六分の割合による金員を支払うべし。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は、原告において金十万円の担保を供するときは、仮りに執行することができる。
事実
原告訴訟代理人は、主文第一、二項同旨の、仮執行の宣言つきの判決を求め、請求の原因として、次のとおり述べた。
被告は、訴外共同水産株式会社と共同して、昭和二十八年十二月七日、原告を受取人として、金額三十万円、満期昭和二十九年一月五日、振出地支払地ともに東京都中央区、支払場所株式会社帝国銀行築地支店なる約束手形を振出し、原告は昭和二十八年十二月三十日これを株式会社第一銀行に取立委任裏書をし、同銀行は満期の日に右手形を支払場所に呈示して手形金の支払を求めたが拒絶され、これを原告に返した。その後昭和二十九年六月十一日に至り、共同水産株式会社は原告に対し、手形金の内金七万五千円を支払つた。よつて原告は被告に対し、手形金残額二十二万五千円と、これに対する昭和二十九年一月六日から完済に至るまで手形法所定の年六分の割合による利息金の支払を求める。
被告の抗弁事実は結局争う。原告は昭和二十八年十二月七日共同水産株式会社と被告を連帯借主として金三十万円を貸与し、その支払確保のために本件手形の振出交付を受けたのである。
そして、昭和二十九年六月十一日原告が共同水産株式会社から金七万五千円の支払を受ける際、同会社が「被告が共同水産株式会社の売掛代金七十万円の取立をしているから、残りの二十二万五千円は被告に支払わせることにする。」といつたので、原告は、右会社が現実に被告をして残額二十二万五千円を支払わせることを条件として、右金額の支払を猶予したのである。
仮りに原告が右会社に対して債務免除の意思表示をしたのであるとしても、右意思表示は、その要素に錯誤があつて、無効である。すなわち、原告としては、右免除の意思表示をしても被告に対しては残金二十二万五千円の支払を求めることができると考えて、右免除の意思表示をした。もし、右会社に残債務免除の意思表示をしたことによつて被告に対しても残債務を請求することができなくなることがわかつていたとすれば、原告は債務免除の意思表示をするはずではなかつた。かように被告に対して残債務を請求することができるか否かは右債務免除の意思表示の要素であつたから、被告主張の如くんば、右免除の意思表示は民法九五条によつて無効である。
また、仮りに以上の主張が理由なく、そして被告がその主張のように共同水産株式会社の借受金債務につき保証をしたのであるとしても、被告は昭和二十九年二月中右会社の債務のうち金十五万円の部分を引受けたから、本訴請求は少くとも金十五万円の部分に限つては正当である。
このように述べた。
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する旨の判決を求め、次のとおり答弁した。
原告主張の事実は認めるが、被告は次の理由により本件手形金支払の義務を負わない。
本件手形は、共同水産株式会社が昭和二十八年十二月七日原告から借受けた金三十万円の支払確保のために振出したものであり、被告は、当時右会社の取締役をしていた関係から、原告の求めに応じ右借受金債務につき保証をする主旨で、右手形の共同振出人になつたのである。しかるところ、昭和二十九年六月十一日、原告は右会社から手形金の内金七万五千円の支払を受けて、その余の債務を免除した。かようにして、主たる債務が消滅したのであるから、被告の保証債務もまた消滅した。したがつて、被告は右手形金支払の義務を負わない。
仮りに被告と右会社が連帯して前記金員を借受けたものであるとしても、右借受金は右会社が使うために借り、事実そのとおり右会社のために使つたのであつて、被告と右会社との間においては、負担部分は、「被告零、右会社全部」ということであつたから、原告がした前記債務免除の意思表示によつて、やはり被告の債務は消滅した。
その他被告の再抗弁事実はすべて否認する。
このように述べた。
証拠<省略>
理由
原告の請求原因事実は、当事者間に争いがない。
よつて被告の抗弁について判断する。
甲第一号証と原告代表者本人、被告本人の各供述と弁論の全主旨とを合せ考えると、共同水産株式会社と被告は、連帯で、昭和二十八年十二月七日、原告から、金三十万円を、弁済期昭和二十九年一月五日と定めて借受け、その支払確保のために本件手形(甲第一号証)を原告に振出交付したことを認めることができる。この点について、被告は、「被告は共同水産株式会社の債務について保証をしたに過ぎない。」というが、被告本人の供述中これに符合する部分は採用することができない。ほかに被告の右主張を認めて前認定を動かすことができる証拠はない。
次に甲第二、三号証、乙第一号証(いずれも真正にできたことに争いがない)、と証人井上智、佐藤寛の各証言、原被告各本人の供述とを合せ考えると、昭和二十九年六月十一日、原告は共同水産株式会社から債権額の四分の一に当る七万五千円の支払を受けて、同会社に対し「残額を打切る」旨の意思表示をしたことが認められるが、同時に次の事実をも認めることができる。
本件金員の貸借にあたり、被告は、共同水産株式会社単独振出名義の約束手形をもつて、原告の代表取締役内藤彌吉を訪ね、同会社のために金借の申込をした。内藤は、右会社よりもむしろ被告を信用していたので、被告に債務者になることを求め、本件手形を徴して金三十万円を貸したのであつた。右会社は当時すでに営業不振を極め、間もなく整理をはじめ、昭和二十九年四月二十九日の債権者会議において各債権者に四分の一を払つて残余の債務を打切つてもらうことを願い、債権者の殆んど全部はこれに同意した。その間原告に対しては、共同水産株式会社は、「被告伊藤は共同水産株式会社の売掛代金中七十万円を取立てて被告個人の用途に充てているから、本件手形金は原告において被告から取つてもらいたい。」と申出でていた。ところで、原告の代表取締役内藤弥吉は、前記債権者会議に出席して、共同水産株式会社の整理に対して好意ある態度を示していたので、共同水産株式会社の代理人井上智、佐藤寛らは、同年六月十一日頃右内藤を訪ね、原告においても右の方式による整理に協力してもらいたいと願つた。内藤は、本件三十万円貸付のときの前記いきさつもあり、また共同水産株式会社から、「被告からとつてくれ。」との申出を受けていた事情もあつたので、本件貸金中四分の一以外の部分は被告から支払つてもらうこととし、そのことを明らかにして、右会社に対してだけ残額を打切る主旨で、前記の意思表示をした。
このように認めることができ、右認定を動かすに十分な証拠はない。
連帯債務者の一人に対してした債務の免除はその債務者の負担部分について他の債務者の利益のためにもその効力を生ずるのであるから(民法四三七条)、本件において原告が共同水産株式会社に対し残債務免除の意思表示をしたとすれば、原告は被告に対し右残債務全額の支払を求めることはできないことになる(共同水産株式会社に負担部分がある限り。)本件においては、被告に対し残額全部を請求する意思を明らかにしたものである以上、原告の共同水産株式会社に対してした「残額打切」の意思表示は、少くとも債務免除には属しない意思表示であるとみるのが相当であり、右会社が整理の一環として原告に願つて右の処置をしてもらつたものである事情及び原告が本件手形を右会社に返さなかつたこと(原告代表者本人の供述によつて認められる)を考え合せて、当裁判所は、右「債務打切」の意思表示は債務は債務として残しながら右会社に対してはもはやこれを請求しないという意思を表示したものであると考える。
もし原告の右会社に対する意思表示を残債務免除の意思表示であると解しなければならないとすると(そして負担部分の関係からいつて被告に対し残債務を請求することができないとすると)、原告の右意思表示にはその要素に錯誤があつたとみなければならない。
何となれば、さきに認めたところで明らかなように、原告は被告に対し残債務を請求することができることを前提とし、このことにごく重きをおいて右の意思表示をしたのに、実は、被告に対しては残債務全額を請求することはできないという結果になるからである。この点からすれば右債務免除の意思表示は民法九五条によつて無効であるといわなければならない。
結局、連帯債務における被告と共同水産株式会社との負担部分をせんぎするまでもなく、被告の抗弁は理由がない。
してみると、被告は原告に対し、本件手形金残額二十二万五千円とこれに対する昭和二十九年一月十六日から完済に至るまで手形法所定の年六分の割合による利息金を支払う義務を負うものといわなければならない。
よつて原告の請求を認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を、仮執行の宣言について同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 新村義広)